水を飲んだ写真は美しい

Tsuda Nao in Blog 2011.10.03

9月初旬はミャンマーに行っていた。
夏の終わりが近づいていた日本から再び真夏へ戻ってゆくような旅だった。
現地では少数民族の暮らす湖水地方や乾燥地帯などをフィールドワークしたが、
地域によって随分と温度差もあり、国土の広さをあらためて感じた。
又、仏教大国とはいえ近年二度に渡り訪れているブータンとも違い、
寺院や僧院、修行の場はミャンマー特有で滞在日数は10日間と
いつもに比べて短かったものの、多くの知恵を得た。




きっとそれほど時間を空けることなく、僕は再びこの地を踏むと思う。
日本に暮らしていると入ってくる偏った情報のこともあり、
すでに軍事政権というイメージがこの国の素肌を覆っているという
傾向もあるが、旅をすることでその覆いは随分と剥がすことが出来た。
外からのイメージが内部では全く違っていたというのは良くある話しだが、
どこの文化圏を歩んでいても互いに顔の見える人々と出会うことで、
距離を掴み直すことが可能となる瞬間がある。
だから渡り歩いて思考は鍛えたい。
肌身で距離は計りたい。





帰国後は新作制作のため、暗室や個展の準備などで慌ただしくしていた。
そして気がついたら一週間後には再び飛行機に乗って移動。
フジヤマが蒼く澄みきった空にくっきりと見えた。
関西では特別講座、トークイベントなどが縦続いていたが楽しい時間を過ごした。
各会場にて集って頂いた皆様、この場をお借りして御礼申し上げます。
写真熱に冒された若者達にも会えて嬉しかったな。



久しぶりに横浜へ戻ったら、夜の風が秋を運んでくれた。
それから間もなく、台風が各地に被害をもたらした。
近所でも畑に木が倒れ、畑に立つ人を困らせていた。
海辺はいっそう大きな風が吹いたらしい。
家に帰り着かず、風が去ってから家に帰ったアシスタントは
家から吹き飛んだ物を思いもしないところで幾つも見つけた。

今週も写真を一枚ずつ掬うように制作している。
暗室の水洗場で、まだ水中に揺らぐ写真をじっとみている。
写真は踊り、回転しながら泳いで、やがて色彩も落ち着き、定着する。
水から掬い、並べられた写真は同じネガから像を結んだとしても、
決して一枚と同じものはない。
収穫された果物のように。
翌朝、あらためて写真を机に広げ、空気にさらす。
一度水を飲んだ写真は美しい。

それにしても秋に入り、空はうんと高くなった。
Coccoの歌声を聞きたくて、ライブへ行った。
透き通った言葉が頭上を舞って、あらゆる境界線が透明な線と重なり、
拓かれた土地を望むことが出来た。

帰り道、海から東京の明かりを見た。
いつもより澄んだ夜空の下で空気が凛としていた。
9月は真夜中に去ってゆき、遠くの秋雲が僕らの町にやって来るのが見えた。

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