被災地を見舞う

Tsuda Nao in Blog 2011.04.06


昨日、東北から横浜へ帰ってきた。
未曾有の大震災に遭遇した方々を見舞うため、連絡の取れていない友人達を捜すため、救援物資を運ぶため…被災地を訪れたのだった。
今日は報告とまでいかないが、わずかでも情報が役に立つなら、レポートをここに残そうと思う。

3月31日(木)
大阪にて午前中に仕事を済ませ、前日までに友人達の協力のもと調達していた救援物資の荷造り。13時過ぎ、京都から新幹線で新横浜へ。自宅へ戻り、さらに物資を詰め込み、荷造り。地図、防寒着、自分達の食材、物資などをまとめ4時間後にアシスタントと共に横浜を出発。手持ちで限界と思われるほどの荷物となった。おそらく75キロ超えぐらいだろう。いつもの海外取材時の重量をややオーバーするくらいの物量。内容を参考までに記しておこう。
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衣類(大人男女用の下着、靴下、長袖シャツ、パーカーに加え乳児用衣類など)、食料(生野菜、水、野菜ジュース、飴、ドライフルーツ、ウィダーインゼリー、チョコレート、カップ麺、お菓子など)、日用品(乳児用玩具、ウェットティッシュ、生理用品、塗り薬、ハンドクリーム、リップクリーム、歯ブラシ、サランラップ、各種ビタミン剤、乾電池、折り紙、色鉛筆、カラーペン、クレヨン、スケッチブック、育児本など)
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東京駅23時10分発の夜行バスで盛岡を目指す。

4月1日(金)
7時、盛岡へ到着。朝食を済ませ、岩手日報など新聞に目を通し現地の最新情報を入手。震災直後に出産をした友人が盛岡市内にて仮住まい中なので訪ねる。無事に再会。先日まで名も無き子が、今は名前をもらい母の腕に眠っている。愛おしい母子の姿に返って励まされている自分に気付く。誰もが運命と共に生かされていることをあらためて実感する。山田町に実家を持つ友人は現在両親と赤ちゃんの4人で仮住まい。まずは電気・ガス・水道が確保されていることに一安心。春が近づいているとはいえ、雨ざらしに耐えられるほど東北の寒さはまだ甘くない。すでに家は津波の後に火事に遭い焼けたと聞くが、友人は「家族が欠けていないだけで十分だよ。」と僕に言った。今度は東京で会おうと約束して、子育てに必要な育児本や物資などを渡し、別れる。
まずは移動用に車を調達。事前に出来る限りの手は打っていたが、ガソリンだけが心配だった。しかし、幸い昨日深夜から盛岡ではガソリンの供給が良いとの情報。何とか満タンで盛岡を後にする。途中、駅近くにあるスーパーマーケット、マックスバリューにて食材を追加入手。葛巻町を13時過ぎに通過。辺りには集落も見えているが、目立って倒壊している家屋はまだ目につかない。気が付いたのは古い納屋などが幾つか倒れている様子のみ。気温は7℃。久慈渓流を横切り、岩手県北部・陸中海岸に位置する野田村へ14時10分過ぎに到着。震災以来、直接連絡の取れていない宿屋の夫婦を捜す。事前の情報では中沢公民館に避難中とあったが、役場にて確認をしたところ、同姓同名と判明。だがその直後、宿屋共々無事との情報を入手。早速向かうことに。途中、津波の影響で家屋が流された場所を通る。車を降り、歩き回る。語ることの出来ない状景に言葉を失う。村役場の正面玄関左手では、瓦礫の中から拾われた家族アルバム、卒業証書、婚礼写真、各種スナップ写真などを水で洗い、干し、仕分け作業に没頭している青年と出会う。彼も家はすでに津波に流され失った一人。写真を集め、洗浄し、持ち主へ返す作業は震災から一週間後から始めたと言う。心痛ましい光景の隣にある、心温まる光景に明日への希望を想う。16時、宿屋の夫婦と再会。ずっと胸にひっかかっていた石が取れたような気持ち。こんな形でここへ来ることになるとは、露程も思ったことはないが彼らが生きていることだけで救われた。お茶を片手に過ぎた時間について話を聞く。地震の直後に船を沖へ出すため海に入っていた勇敢な漁師達の話や村の中心にある大鳥居に家の屋根がひっかかって、多くの方が助かったという話…どの言葉、誰の話にも命を懸けた物語があり、息を呑むように聞き入った。余震が二度続く。ラジオから震源地が告げられる。こういうことにも人は日々慣れてゆく。神戸の震災後のことを思い出す。陽が暮れたので、今夜は野田村に泊まることにした。窓の外には雪がまだ残っている。

4月2日(土)
6時半起床。7時に朝食。宿を発ち再び村役場を訪ね、昨日出会った青年と話す。野田村を出発し、普代村、田野畑村を通過して11時半には田老に到着。ここの状況は話に聞いてはいたが、惨いものだった。ほとんど原形を留めたものは無いに等しい。村そのものが消えたかのようだ。更に悪臭が鼻をつく。とにかく歩き、見て回った。13時過ぎ、宮古へ到着。道路脇の線路も捲れ上がり、中心部でも信号機も動いていない。警官による誘導で進む。野田村でもそうだったが、道路ですれ違うのは瓦礫撤去用車両、自衛隊、救援物資車両がほとんど、そこにわずか乗用車が行き交う。15時山田町へ到着。かなりの幅で津波が押し寄せたのが見て取れる。加えて火事の後が目立つ。しかも集中的に土が黒く色付いているので、やはり家屋の灯油タンクに引火して数珠つなぎに火事が広がったのだろう。山田町の被害の全体像がまだつかめずにいるが、自衛隊がとにかく瓦礫の撤去にも迅速な対応をとっていて国道45号線はもちろんだが被害のわりに内道まで通れるようにしてくれている。お陰で町役場まで何とか車で物資が運べた。役場へ着いた時刻は16時を少し回った頃だったと思うが、ちょうど避難している住民へ物資を配給する時間帯だった。列は町役場を二巻きしても途絶えることないほど連なった。寒さを耐え凌ぐ顔がそれぞれの思いを複雑に伝えていた。持参した物資はほとんど手渡すことが出来た。16時15分過ぎに出発。山田町から釜石市へ。道は渋滞していたが、17時50分には釜石市を通過。続いて大船渡市を通る。この辺りも報道では見ていなかったが、被害は大きい。今回、現地入りしたことで明らかとなったことは多々とあるが、全体的にテレビなどで見る印象に比べると現地移動で見えてくるのは、壊滅的な被害を受けた場所のすぐ横隣では、被害の少ない家屋も同時に目立つということ。つまり、津波がどこまで押し寄せたかということは、残されたものの形状から大方予測出来る光景が続く。18時50分過ぎ、陸前高田市に到着。すでに陽が傾き、町の姿を眺めるのが難しい時刻となる。足元の泥が先程までに比べより目立つ。19時、雪が降りはじめる。住田町、遠野市、花巻市を通り、盛岡まで戻り就寝。

4月3日(日)
朝、調べごとなどを済ませ9時半に盛岡を出発。宮城県多賀城市の知人に米を届けに行くため、食材入手。車を一旦返却し、取り敢えず荷物と共に米10キロを抱え、バスで仙台へ移動。13時過ぎ到着。再び車を調達し、仙台周辺の情報を入手。こちらは盛岡に比べ、ガソリンも足りておらず、仙台駅周辺でもまだガスが復旧していない地区もあり、お湯は望めない。別ルートで塩竃入りをしている写真家の平間至氏(故郷となる塩竃を支援しに来られている)と電話連絡。平間氏は昼に合わせ、津波により壊滅的な被害を受けた七ヶ浜にて炊き出しを行ったらしい。その後場所を塩竃へ移していたので、ガス体育館にて合流。互いに情報を交換。炊き出しが一段落したところで、共に仙台港へ。工場地帯では倉庫など大型の建物も信じがたいほど、押し潰され、線路は絡まり、車は空から降ってきたような状態で松原にひっかかっていた。18時、平間氏と別れ知人宅の番地を頼りに多賀城市へ米を届けにゆく。ヘッドライトのお陰で家が見つかる。一歩一歩だが着実に届く喜び。23時、就寝。というか気が付いたら眠っていた。

4月4日(月)
朝、調べごとを済ませる。11時半、塩竃の先、七ヶ浜へ。長須賀、海浜公園、諏訪神社方面を望む海沿いの家屋はすでに流され、一部まだ水が引いていない。行方不明者の捜索も続いている様子。砂浜へと出ると、海岸にはコンテナが転がり、松原はなぎ倒されている。住宅地のあった汐見台は被害が大きい。12時45分、塩竃へ移動。市内は信号がところどころ消えている。塩竃神社周辺の商店街も被害が目立つ。だが瓦礫の中で電話線復旧の作業が続く。今日も雪が散らついている。松島町、東松島市を通過。ここでは内陸部まで津波の影響がありそうだ。波が河川を登ったのだろうか。またこの辺りはコンビニもほぼ閉まっている。助かっている地域でも物資が届いていないからだろうか。石巻市入ってから渋滞が続いたので、ルートを変更し河北ICから高速を経て398号線で南三陸町へ向かった。16時に南三陸町へ到着。広範囲に渡り津波にのみ込まれた様子。しばらく歩いたが、海岸線では堤防は打ち砕かれ、アスファルトは捲れ、見渡す限り残った建物はほぼ無い。海に近い志津川病院近辺も歩き確認したが、水位は4階にまで達していた跡形が残る。本格的な撤去作業も難航しているため、自衛隊や警察とひっきりなしにすれ違う。何とか道路は確保しつつあるが、復興の目処は遠い。新聞では集団避難の記事が上がっていた。住民の胸中の波は一体いつになったら引くのだろうか。日没近くまで南三陸町を歩く。帰路、車のラジオから宮沢賢治の「雨二モマケズ」の朗読が流れていた。

その後、仙台を経由し夜行バスで再び東北自動車道より都内へ戻った。
延べ4日間、現地にて走行した距離は763キロ。
三陸海岸線を中心とした移動であったが、本来は北部に豊かな隆起海岸、宮古市以南にはリアス式海岸から、美しい半島へと続く国立公園である。

そこに暮らす人々は大震災・津波という自然災害に遇い、痛ましい現実と向き合うこととなった訳だが、今まさに必死で生きている彼ら一人一人へ向けて、長期的な眼差しを持って、これからも出来る限りでの支援を一個人として続けてゆきたいと思う。

追伸:被災地からの報告は写真で伝えることも出来ると考えましたが、あくまでも主たる目的が被災地にて連絡の取れていなかった知人および被災者への支援によるものだったため、現地点において写真を交えた報告は相応しくないと判断しました。今後、然るべき機会や場所の訪れがございましたら、写真を交え、あらためて報告の機会を探りたいと思います。

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