被災地から届いた花
東北地方太平洋沖地震から一週間が過ぎようとしている。
その間まともに机を前に座ることすら厳しく、日々は過ぎていった。
まずは大震災により被災された多くの皆様へ、
心からお見舞い申し上げます。
被災地ではまだまだ余震が続き、生活に最低限必要な食材ならびに
生活物資すら不足しており、寒さも重なり大変厳しい状況下に
人々は生きていると思います。
胸が詰まりそうになりながらも、一刻も早く救援の手が届くことを
切に願うばかりです。
僕はと言うと、実は地震発生の11日早朝に
東北から戻ったばかりだった。
昨年から続けている縄文フィールドワーク(古代遺跡などを訪れ、
土地から読み取れるものを手掛かりに、この国に宿る信仰の原点を探る旅)
に出掛けていた。
往訪していたのは秋田県北部ならびに男鹿半島。
10日深夜秋田駅からバスに乗り、11日早朝に東京に戻っていた。
地震発生時は暮らしている横浜を移動中だった。
阪神淡路大震災において実家が全壊している経験もあり、揺れに全身が怯えた。
長い横揺れは経験したことのないものだった。
当日は都内の避難所で一夜を明かした。
旅の直後で携帯電話の充電不足もあり電源が落ちてしまい、
連絡をくれているにも関わらず音信不通となってしまったことで
心配を掛けてしまった。
ご連絡頂きました皆様、ご心配をお掛けしました。
僕は無事に暮らしておりますので、ご安心下さい。
その後はとにかく東北の友人達へ連絡を取った。
一本一本繋がる度に生きた心地がして、深呼吸した。
それでも連絡が届かない人もいる。
宮城県、岩手県、福島県…震源地に近い人々の安否をとにかく祈った。
大自然の驚異的な力を思い知る瞬間だった。
自然は美しさを生み出す力を秘めると同時に、
破壊、断絶など厳しい側面を常に孕んでいる。
太平洋プレートと地震の関係性はすでに明らかなものだが、
あらためて地図を広げ、プレート境界に位置するエリアに
日本列島やニュージーランドは重なっている。
さらにニュージーランド列島からフィリピン諸島…シベリア東部…
ロッキー山脈を通り、アンデス山脈から南極半島までをまたぐ
環太平洋火山帯の上に僕達は暮らしている。
歴史的に長く観測されている記録からも我々は
自らの正確な位置を知ることできる。
とはいえ何を身構えれば良いということでもない。
人間はその場その場で互いに助け合い、自然の摂理に従い、
生きる術を身につけてゆく他はない。
まだ各地で余震が続く中、人々は怯えながら暮らしている。
ここ数日は震源地が長野、新潟、茨城、千葉、静岡…と点在することや
計画停電も原因して、関東でも水や電池などの資源が店頭からすでに姿を消している。
横浜でも食材など片寄った状態が続いている。
だが何より被災地に物資が届いているのかが、気が気ではない。
そしてここの明かりを押さえることで、届けられる明かりが
あるならば、我々ができることがわずかでもあることを感じる。
昨日午後にはようやく連絡の取れていなかった岩手の友人から電話が鳴った。
着信画面を一瞬眺め、助かったのだと信じ、電話を受けた。
声は震えていた。懐かしい声だった。
喜びに混じり、悲しみが重なり複雑に心中が揺れた。
すでに実家は津波にさらわれたが家族共々助かったという。
声はつづき、彼女は「今朝、出産したよ」伝えてくれた。
「わたし、強くなったよ」と話す声はさっきよりしっかりと届いた。
夫は東京、両親は宮古に避難中。彼女だけが搬送され盛岡に居るという。
今はそれぞれに生きている状況だが、誰もが希望と寄り添い生きようとしている。
電話を切り、歩いていたらメールが一通届いた。
生まれて間もない赤ん坊の写真だった。
吐息が聞こえそうなくらい大きく開いた口は、まるで咲いた花のように上を向いていた。
数日間の緊張した身体が一瞬で緩み、何度ものぞき込むことしかできなかった。
- 春までにそれぞれができること
- 雪の解ける前に 其の二