無文字文化のフィールドワーク

Tsuda Nao in Blog 2010.05.17

ここ一ヶ月程のことを振り返り書いておこうと思う。
僕は繰り返し、移動をし続けていた。
それはなぜか。一言では言い尽くせない。
理由があってのことだ。
もう少し言えば、「見えかけているもの」が幾つかあるのだ。
そのため今年はフールドワークへ時間を注ぎ込むつもりでいる。

上手く言えないが、これは僕のくせのようなもので、
これまでも構想の原点に至るとき、
大抵は移動の最中導き出してきている。
だから一定速度の連続運動において、
ある安定した思考回路が形成されることは自然なことではないかと思う。
これはフィールドで闘うスポーツ選手に習うところでもある。
またその過程において、浮かび上がってきた言葉やイメージは、
制作の手がかりとして役に立つものが非常に多い。

では実際のところ具体的にどこを巡っていたのかと言うと、
ヨーロッパ最西端の古代遺跡の中を歩き回り、
十六世紀に実在した海賊の暮らしていた島を巡り、
自給自足で暮らす島民の食卓へ立ち寄ったり、
イースターの時期にはドネゴール地方に住む友人家族の食卓へ
交ざり過ごしてきた。







その間に幾つのドルメンや泉、墓地を訪ねただろうか。
僕らの足元にはいつだって歴史が眠っているものだ。
そのことを忘れてはならない。


最後の週はパリへと移動し、念願のジンガロを観に行き、
その他の時間にはアフリカンアートなどを観て回った。
ヨーロッパ各国における移民の問題、
これにはもっと時間を注ぎ込まねば、見えてこない顔が山とある。





この旅路が僕に教えているものとは何か、
それは未だ僕の中でもすべてが解けた訳ではない。
ただ一つ確信出来ていることは、
「現代社会の不均衡のルーツは先史時代にある」ということだ。
生物地理学者のジャレド・ダイアモンドも
同じような考察を著書に記している。
無文字文化を辿るフィールドワークはもうしばらく続くだろう。

そしてこれらが新作の下地になることはもう間違いないと思う。
ここ数年作品制作において最も重要なことの一つは、
いかにして千年の年月という単位を飛び越え、
思考する回路を身につけるかだ。世界はまだまだ開拓されてなどいない。

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