世界の入口に立つこと
新年あけましておめでとうございます!
今年も展覧会・出版・トークイベントなど充実した一年にすべく精進して参りますので、
変わらぬご厚情を賜りますようお願い申し上げます。
年末年始は生まれ育った神戸で過ごした。
新幹線を降りて、山道へと続く坂道をぐんぐんと登ってゆくと家がある。
周りは坂道と階段ばかりだ。
そういうところで育った。
だからそういう場所が好きになった。
今暮らしている横浜でも坂道と階段、丘のある処に居を構えているのは、
今にはじまったことではない。
毎月のように関西へ行っているにも関わらず、しばらく神戸へ立ち寄っていなかった。
戻ってみたら、やはり山が近かった。
朝晩がぐっと冷え込むこの季節でも、子供の時には毎日山の茶屋まで登っていた。
それが日課だった。
もう千回なんて回数はとっくに越えている。
でも大事なのは数ではない、問題は道が自分のものに成るか成らないかだ。
僕にとってこの山道は家と同じくらいに長く時間を過ごした場所だ。
久し振りに茶屋まで犬を連れて登ってみた。
登山道に立ち、後ろを振り返ると神戸港に太陽が映り光線で眩しく光っていた。
茶屋の水汲み場には、新たに誰かが貼付けた切り抜きの写真が貼られていた。
ここで見る写真がとても好きだった。
晴れた日には光り輝き、雨の日には悲しいくらいに姿を変えて、雪の日には耐え凌ぎ、
そのうち藍色だけを残して写真は遠くへと消えてゆく。
そういうことを毎日見て過ごしていると、時々入れ代わるポスターや
切り抜かれた写真は特別な色彩に満ち溢れていた。
だから色褪せてゆくことは、生きていることと同じくらいに自然なことだった。
最近はデジタルな写真が増えてしまって
写真を紙で受け取ることが少なくなってきている。
形は何だっていいが、色は褪せていってもらわないとちょっと困る。
僕らは毎日が大事だ。
太陽光だって一刻一刻色を染めているというのに、僕らは染めていない。
そんな世界を放っておく訳にはいかない。
新鮮だからこそ、腐ったり、枯れたり、壊れたり、破れたりする。
だからといって世界は脆い訳じゃない。
脆さを背負っているだけだ。
そういう世界の住人でいなければならない、僕らは。
初詣は親しい知人の家族を訪ね、滋賀県の神社へ詣でた。
参道は木漏れ陽が美しく、静まり返り、山の神が辺りに潜んでいるようだった。
階段を登り、参拝し宮司さんに由縁を訪ねる。
そうして語りと共に、奥へ奥へと足を進めてゆく。
僕らはそういう世界の入口にいつでも立つことが許されているんだと思う。
その幸福を忘れてはならない。
- 冬空の下、侍集結
- 円弧