深まる緑と北の声

Tsuda Nao in Blog 2011.05.11

昨晩は東京・銀座の資生堂にて小説家の柴崎友香さんと対談だった。
お陰様で満員御礼。ご来場下さいました皆様へ、この場を借りて御礼申し上げます。



一夜明け、窓を開けた中庭からは雨と土のにおいが部屋に舞い込んだ。
季節が変わりゆく音をそばで聞いているような朝だ。
この時期の一週間、樹々は生きる速度を早めたかのように、
黙って木の葉をひと回りもふた回りも大きく育てる。

立夏、生き物の先端には力が溢れている。

水は地中から随分と高いところまで、僕らの眠っている間に持ち上げられ、
僕らはその成り行きを今日も見過ごしたまま、思い出したかのように
時々深まってゆく緑を目で追う。
そうやっていつまで経っても、来る季節を植物に遅れて知ってゆく。
どうやら足が在ることと、よそ見がちなことは関係しているみたいだ。
僕らは樹のように生きていた時代から、今は随分とかけ離れた身なりへと
姿を変えてしまったのだろうか。

ところで、ここ一ヶ月blogを書けていなかった。
いや、正確には家に戻っていた日があまりにも少なすぎた。
旅が続いていたのだ。西に東に、北に南に。

特に滞在の続いていた東北には15日間程行っていた。
大震災以来、向こうでの移動距離も既に2500kmを超えた。
中でも福島へ滞在していた数日間は、身体が少し緊張していたように思う。
それは原発によるものというよりかは、(その頃は)まだ
立入禁止区域の制限が今ほど厳しくない時期だったため、
人々の移動が目立ち、落ち着かない日々を送っていた。
出会った老婆や爺さん若者などの中には、大震災以来一度も自宅へ
戻る機会すら持てずにいた人々が多く、一部の人々は
「明日こそは」という思いで意気込んでいた。
噂でも、原発から20km圏内に暮らす人が一時帰宅するために、
非公式に二カ所ほど空いている道があるらしいと耳にした。
その他、ビジネスホテルでは既に避難所を後にした被災者が暮らしており、
ロビーに座っているだけで様々な声が新たな日常を伝えあっていた。
家族を亡くした者の痛みは当然のことながら深い陰を落とし続けている訳だが、
簡単に分け入って分かち合える内容ではないため、
重たい沈黙は横たわったまま時間だけが過ぎていった。
だが、東北にもようやく訪れて来た春の陽気は、
人々を確実に勇気づけているのも事実だ。

どんな時でも希望は眩しく、明るさを振る舞う。
光の存在は大きい。

又、福島滞在中には以前展覧会でお世話になった福島県立美術館の
学芸の方とも出会い、再会を果たすことが出来た。
その喜びは言葉にはなかなか置き換えようがない。
だが彼女がふと口にした、「ここは未だ、被害の底すら打っていない場所なのよ」
と語られた言葉には、返す言葉を一瞬見つけることが出来なかった。
その後も県内各所を車で走り回っていたのだが、原発から
40km圏内辺りまで近づいていた日もあった。
人の姿の少なさが余計に不安を大きくしたものだ。

今春、東北で人々と出会い、語らい、学んだことはたくさんあるが
ここでは書ききれない。
詳しくは別の機会へ改めようと思うが、最新情報の集め方も要点の一つかもしれない。
放射能関連に関しては、地元の新聞が一番役にたったし、
それに加え市民の声も数多く寄せられ誌面に載っているので、
情報が消費されるための粗末な扱いに終わらず、僕らへ届けられている気がした。
大手新聞社とは別の役割あってのことだろうが、こうした町や村単位の
情報を共有することは不可欠だ。
だから最近は、どこでも地方新聞は必ず購読するようにしている。
そう言えば、これは地方紙ではなかったが、4月13日付読売新聞に寄せられた
池澤夏樹氏のメッセージはなかなか良い記事だった。
以下本文より池澤氏の言葉を一部抜粋させて頂くが、
「…つまり、我々は貧しくなるのだ。よき貧しさを構築するのがこれからの課題になる。
これまで我々はあまりに多くを作り、買い、飽きて捨ててきた。
そうしないと経済は回らないと言われてきた。
これからは別のモデルを探さなければならない。」と書かれてあった。
4月半ばと言えば、各雑誌をはじめちょうど著名な方々が
被災地入りを果たし、レポートが続々と挙がっていた頃だった。

GWの頃は秋田にて縄文フィールドワークの続きを再び行った。
季節はちょうど桜満開の頃で、昨年に続き桜吹雪を東北で見ることが叶った。
今頃、桜前線は青森を通過したことだろう。

今週からは久し振りに横浜へ戻って来ているので、溜まっている原稿書きを進めている。
そして、新作の制作準備も始めたい。

旅はまだ続いてゆくし、夏には新しい旅もはじまる。


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